昭和四十八年七月六日 朝の御理解
x御理解第八十二節 
「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。
どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ」


 信心があってもなかっても同じことでしょうけれども、とりわけ信心させて頂いておる者は、この辺のところを、万事にお繰合わせを頂いて、税金の完納が出来るような、お繰合わせを願っておかねばいけない。
 教祖様の場合などは、例えば、お上に上納なさるのにでも、今年の収穫はよかった、多かったという時には、それだけ余分に上納米を納められたということが、その時分のいろんな文書に残っておるそうです。
 私共はそこまでは行かんに致しましてもね、「これこれ払え」と言われたら、これこれだけはです、高すぎるの安すぎるのと言わずに、本当にひとつ払えるお繰合わせを頂きたいと思うですね。
 それは神様へお供えするような気持ち、神様へのお供えならば惜しくないけれども、税金は惜しかと言った考えではなくて、本当に国民としてのいわば義務であり、又は市に住まわせて頂いとるならば、市に対しての義務であり、町に住まわせて頂いておれば、町のまた門内におれば、門内が立ち行くことのために、例えば出しものどんがある時には、本当に快くさせて頂く…。
 「私だん、そげんわけのわからんことにゃ出さん」と言わずに、やはり、そこんところをお繰合わせ願うて、本当に気持ちよう出させてもらえれるお繰合わせを頂きたいと思うですね。
 昨日、壮年部会、いつもおかげ頂く。昨日、私も大変おかげ、私自身おかげ頂いたんですけれども、久富繁雄さんの発表の中に、まあ家庭のいろいろの問題です、それをどういう問題であっても、そこに信心の薄い者、少し頂いている者、段々厚く深く頂いておる者の考え方は違うです。ですから、例えば、どういう問題が家庭に起きても、それを神様の御都合として頂いて行く、とこう言うのである。神様の御都合として頂いて行くところにです、成程神様の御都合であったな、こういうおかげを頂くための御都合だったねという、まあおかげが、その後にです、頂けれる、言うなれば、神様の働きを働きたらしめるという表現で話しておられました。
 いつも頂いておる内容であるけれども、それをそこだけに生粋な頂き方とでも申しましょうかね、この頂き方で行くなら、絶対間違いないですよ。家の内でいろんな問題があっても、「どうしてじゃろうか」と言わずにですね、神様の御都合として頂くと言うのです。
いわゆる、ここで言われる御事柄として頂けるわけです、ですからその後に来るものは、成程神様の御都合であったなあ。こういうおかげを下さろうとするための、こういう御都合だったなあという印が見えた。そこに神様の働きを働きたらしめる、神様の働きを十全に、言うなら、十分お働きを頂くことが出来るというのである。
 どうしてそういうことを言うかとか、どうしてそういうことになっただろう、どうしてこんなことになっただろうかと言うところにはです、成程信心しとるから、そりゃ願いもしましょう。困ったことであるなら、どうぞと、けれども、その時点での頂き方がです、神様の御都合として頂くとこういうわけです。その向こうには、神様の働きを働きたらしめるおかげが頂けれると言うのです。
 その話を聞かして頂いて、みんな、「成程そうですなあ」と言うて感心して頂いたことですけども、あの喜代司さんが、「それに関連した話しじゃないですけども」と言うてお話をしておりました。
 この前の日曜日に、自分ところのすぐ隣の方が、一番下の栄司郎という小学校の二年生ですか、三年生ですかね。子供がおります。
友達がおる。それで、そこのお父さんが「日曜だから、その、お弁当ば作っといで、高良山に連れて行くから」と言うことであった。
向こうは、お父さんとお母さんと子供、こちらは、その栄司郎君を連れて行くとこういうわけなんです。
 それを横で喜代司さんが聞いておってですね、それを、バスで行って、それから三井町から歩いて山に登るとこういうわけです。その時に、フッと自分の心の中に、あんなにか弱いとが、山ば、高良山にとても登りきるまいと、こう思うたと言う。人情を使うたと、こう言うのですね。
 けれども、これはやはり神様の御都合だから、人情を使わずに、神様のおかげで登らせてもらおうと思うた、とこう言う、だから、「お父さんお母さん行ってもいいでしょう」と。「行ってはいかん。
あんたとても登りやきらん」とこう言うとったけども、すぐ、「そんなら、お神様にお願いをして、連れて行ってもらわんの」とこう言うて、ちゃんとお弁当やら出来たと。そしたら、その出来たところで、その雷さんがゴロゴロと鳴ったそうです。そしたら、すぐその後から向こうの隣の方からね「ひょっとして夕立どんしてはならんけん取り止める」と言うて来たとこう言う。
 そこで、子供たちはがっかりするわけですね。その時に、喜代司さんが、「そんなら、僕のところの車で行きましょうか」と、あそこは車の大型を持っとりますから、向こうの家族の方三名、こっちが喜代司さんと六名。大きな車ですから、それでやらせて頂いた。
 それが先生、本当に、その、その辺のところがですね、子供に対する、例えば、危ないという心は人間心。けれども、神様のおかげで、お願いして、やらせて頂こうとこういうそこにです、私の信心がそこにハッキリあるし、それでもやはり神様は、私が先に不安を持ったような、一遍に消して下さるように、次の瞬間には、もう取り止めということになり、しかし取り止めでは子供達があんまり、結構楽しんどるのに、自分が連れて行ってやろうとこういうことになったと言う。それでもう隣からも喜ばれ、子供たちも大変喜んだ。
 もう一つ有難いことには、家内子供は隣近所で付き合いをしとるけれども、私は永年しとるけれども、まだもの言ったこともなかったとこう言う。わざわざ仲良くしようというのじゃないけれども、もう隣のやつどんとはものは言わんという意味じゃないけれども、やはり、お繰合わせを願うておったと。
 いつも隣近所、特に町のことですから、そういうふうな感じですね。もうそれこそ、隣に誰が住んどるかわからないというようなあれもありますけども、それで、向こうの主人も、どこか官庁に勤められとるそうですけれども、大変喜ばれて、お父さん同志の、言わば、懇親も出来て、大変子供達同志よりも、大人達同志がおかげを頂いて、気分の良い一日をでしたと言う。
 その神様の御都合というものは、もう次には思いがけないおかげを、そこに表して見せて頂いておる。成程こういう御都合であったなと。あれがどうでしょう、「そりゃ、あんたまだ出来んけん」と言うて、おごってやらなかったら、それだけのことですけど、そこを信心で受けとめて行くとこう言うのです。
 私は、今日は、ここの八十二節のここんところは、そういう、例えば税金の場合であってもね、それはだから、そのために、ちゃんと適当な申請もしとかなきゃいけん。また、それに対するところの税金、過不足があってはならない。丁度よいお繰合わせを頂かしてもろうて、それがそうと決まったらです、それこそ、もうそれこそ、大蔵省は人間の口のようなもの、納まらなければお国が立たん。納まらなければ町が立たん。納まらなければ門内が立たんというような考え方をですね。
 私は、それを聞かせて頂いて、喜代司さんそれは素晴らしいね、その頂き方、考え方は、もう信心は、その地で行くという生き方が大事です。「あっちは信心は、金光様には、そうな参ってばってんが」と隣近所から悪に言われるようであっては相済まん。それはそういうおかげを頂く過程であれば、仕方がないその道すがらであるならば。けれども、日頃の願いというものが、そこに、どういう例えば、税金が来ても、払わして頂けるお繰合わせを頂いとかんならん。
 それははじめの間は、隣近所におって、全然わからんから子供達の付き合いから、子供達の付き合い。そして、主人達の付き合いになる時には、時間は随分かかっとりますけれども、そういうお繰合わせを頂くことと同時に、そこに神様の御都合と言うものを、いつも重点、重視しておかねばならん。
 だから、どんな場合であっても神様のお働き、言うなら、神様の御都合として、すべてを頂かしてもらう。その向こうには、神様のこういうおかげを下さろうとしておった、働きを感ずることが出来る。いわゆる繁雄さんの発表じゃないですけれども、神様の御都合として頂いて行けば、神様の働きを神様の働きたらしめることが出来る。神様の働きを十全に受け止めることが出来る。そこにはじめて、信心生活ということが言えるのではないだろうか。
 特に、なら、税金問題の場合なんかでも、信心生活とは、信心させて頂いとる者の頂き方としての頂き方が出来なければ、税金、お道の信心させて頂くよって、言うなら、脱税といったことで、御迷惑かけるようなことでは、いよいよ信心させて頂きよって、た者としては、いよいよ相済まぬことになる。
 問題は、だから、お繰合わせをね、だから、それは少しは、これはまあ多いというてもです、説明をしたけど、まけて頂けん場合であっても、お繰合わせを願って、払えるお繰合わせを頂いたら良いのだ。払わせて頂けるということが有難い。そういうところをです、なら、税金が来た時に、それを払わしてもらうということは、ちっとこれは、俺りげのところは多かごたる。けど、それを神様の御都合として受けたらです、その向こうに神様の働きはちゃんとあるようになっとるのです。
 それを、御都合として受けんで、「どうしてこげん家は高かじゃろうか」と言う中からは、信心させて頂いとる者、神様の充分な働きをそこに受けとめたり、感じとらせてもらうことは、出来ないと思うです。「何事も真心になれよ」と言うこと。これは税金だけのことではない、隣近所のお付き合いの上のことにおいても、そういう、喜代司さんの発表じゃないですけれども、そういうお繰合わせを頂いて、信心させて頂いておる者の値打ちをね、発揮して行きたいと思うですね。
どうぞ。